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初めまして、以下の都市伝説を投稿します。
よろしくお願いします。
この都市伝説は、【日本はたった一つの図形を手本にした民族であり、
日本の文化とは、たった一つの図形を元にした文化である。】
という都市伝説です。
小説・コミック投稿コミュニティE★エブリスタ
でも公表しています。
こちらからもご確認頂けます。
日本に残る、不思議な習慣「下の歯が抜けたら、屋根に投げる」など、の謎を解き、日本人が忘れた、日本の哲学、日本の心を明らかにしていきます。
━━━━。目次。━━━━━━━━
結論:日本文化とはたった一つの図形である。
1:神社の道の真ん中は開けて歩く
2:天国はどこにある
3:自然崇拝、八百万神、付喪神(つくもがみ)
4:情けは人の為ならず
5:先祖供養
6:なぜ死ぬと仏様になるの?
7:謙遜は美徳
8:武士道
9:切腹の正体
0:お正月になぜ?凧揚げをしたり、独楽輪回して遊ぶのか?
1:なぜ、元旦にお金を使ってはいけないのか?
2:不思議な教えが最も残るお正月の正体。
日本人が忘れた大和の心
「どうして?お正月は、凧揚げや独楽で遊ぶの?」子供の頃、よく大人
に質問しました。
しかし、返ってくる答えは、「昔からやっているからだよ。」「みんな
がやっているからだよ。」子供ながらに、それは答えではないと思ってい
ました。そのような説明では、残念ですが、日本の文化を伝えていくこと
は難しく、形式的に続いたとしても、本物の日本人が育つはずがありませ
ん。
物質的には昔と比べものにならない位、豊かになった現在の日本ですが
、犯罪の欧米化、人と人のつながりの希薄化が懸念される現在、今こそ、
物質的に豊かになった一方で、どこかに置いてきてしまった忘れ物を、取
り戻す時が来たのではないでしょうか?
皆さんは、日本人とは何か?日本とはどんな国か?日本文化とは何か?
答えられますか?
これまで日本は、自然崇拝(アニミズム)、和の文化、農耕民族などと
説明されてきましたが、それよりももっと簡単で、端的な答えがあります。
それこそ、日本人が忘れてしまった日本の魂であり、大和の心なのです。
その答えは、日本人とは、円を手本に生きてきた円の民であり、日本と
は、円の哲学を持った最も哲学的な国であり、日本の文化とは、円の哲学を
子孫に伝えるために生まれた文化であるということです。
日本では昔から、日の出を拝んだり、お月見をしたり、太陽と月の両方
の信仰を持っていました。今でも、お正月は、初日の出を見、丸いお餅を
お供えし、お月見は、丸いお団子をお供えします。
太陽も月も円形です。見方を変えれば、日本人の丸い形、円の信仰とも
言い換えることが出来ます。
現在の日本通貨は、円ですし、日本国旗は日の丸です。古来日本は、日
出ずる国、大和、倭の国と呼ばれていました。
また、人と人のつながりをご縁、または和と言います。
その他にも、角が取れて丸くなる。円が満ちると書いて円満。丸く収ま
るなどの言葉もあり、正しいものには○、誤りには×を用いました。この
様に、古来から日本人は、円を信仰し、お手本にしてきたところがありま
す。
世界にも太陽信仰、月の信仰があり、日本も同様に太陽と月の信仰だと
考えてしまいがちですが、日本は、太陽と月の信仰ではなく、丸い形、円
の信仰であると考えた時、日本文化の謎が紐解けてきます。
それでは、円と言っても、具体的にどういうことなのでしょうか?円を
どのように捉え、どのように円を手本にしてきたのでしょうか?
日本の不思議な習慣の謎を紐解きながら、それらを説明していきます。
第一章 日本の不思議な教え
「神社の道の真ん中は開けて歩く」
昔から神社では、道の真ん中を開けて歩く教えがあります。理由は、神様が通る場所だからだそうです。神様の通る場所がなぜ?真ん中なのでしょうか?神様は世界の全てを創造した一番最初の存在になります。普通は、上、下、右、左の端っこになるのではないでしょうか?
なぜ真ん中なのでしょう?
円の哲学①
それは、古来日本では、「この世界は、神様を中心点に描かれた円の世界である」という哲学を持っていたからです。
一般に、正確な円を描く時、コンパスを使います。
円の哲学②
「一番最初に、点(中心)を定め、始点から終点にグルッと回して、円を描きます。」
円は、中心である点を定めることが一番最初になりますので、日本では中心が、この世界の創造主である神様の場所になります。
そして昔から、神様のいる場所は、天の国と教わってきました。天の国では、どこにあるか見当がつきませんが、文字を変えて、点(中心)の国としてみると、神社の道の真ん中を開けて歩く意味が、理解し易いと思います。
昼に見える太陽と、夜にならなければ見えない月の両方を信仰してきた、日本文化の謎を解くには、見える円だけでは謎解くことは出来ません。円には中心に、見えない点があることに気付かなければなりません。
忘れがちな中心の点を意識するのであれば、点と円の哲学と呼ぶべきかもしれません。
現在では、自然崇拝として理解されている日本文化ですが、円の哲学に基づけば、神様である点を中心として描かれた円の世界ですから、世界のありとあらゆるものに、神性が宿ると考えられたのです。自然崇拝、八百万神、付喪神(つくもがみ)など、とりとめの無い日本の神様ですが、根本は円の哲学にあったのです。
第二章 日本の不思議な教え
「情けは人の為ならず」
昔から、情けは人の為ならずという言葉がありますが、これは、人の為にしたことは巡
り巡って自分に戻ってくるという意味です。本当でしょうか?
円の哲学③
「円の世界では、始点の真後ろが終点になります。」自分が目の前に差し出したものが、巡り巡って、自分の背中から戻ってきます。それを、自分自身が振り返って受け取ることになります。
つまり、円の世界では、与えるものが受け取るものになります。ですから、情けは人の為ならずとは、真実だということになります。
それ故日本では、お祝い、香典、お見舞い、お歳暮などの助け合いの習慣があります。
これらの習慣が陰ながら、日本の豊かさを支えているのです。
第三章 日本の不思議な教え
「先祖供養」
本来、仏教には先祖供養はありません。なぜ?日本では先祖供養があるのでしょうか?
円の哲学④
「この世界は円の世界です。円は点と点がつながり、点から線へ、線から円に至ります。」
それ故、円の世界は、永遠であり、間がありません。つながること、続くことが尊ばれます。逆に、円にはあってはならない間を、魔として忌み嫌いました。
円の世界にあって、私達一人一人は例外無く、つながりの中に存在しています。
自分が存在するのは親のお蔭、親が存在するのは祖父母のお蔭、祖父母が存在するのは
先祖のお蔭、先祖が存在するのは滞りなく命を育む世界のお蔭、そして、世界を創った神様のお蔭だと考えてきました。それ故、「お陰様です。」という言葉が日本にはあります。
この様に、円の哲学を持っている日本で、先祖供養をすることは自然なことなのです。それどころか日本では、先祖だけでなく、親を大事にし、老人を大事にし、世界を大事にし、神様を尊び、永遠に続くつながりを大事にしてきました。
そして円は、始点から始まり、ぐるっと回って元に戻ってきます。ですから、神様から生まれた私達は、死んで神様の元に戻った時、仏様と呼ばれ、神様に戻るのです。
第四章 不思議な日本の教え
「謙遜は美徳」
日本では昔から、謙遜は美徳であると教えられてきました。
一方で、外国人から「謙遜は美徳ではない」と指摘されることがあります。関連して、日本人の特徴は、「自虐的、優柔不断であり、物事が決められない。」など言われることがあります。なぜでしょうか?
円の哲学⑤
円には、重要な特徴があります。「線には、必ず端っこがあり、右、左どちらか一方に決める必要があります。しかし、円には端がありません。つまり、調和の世界です。」
それゆえ日本人は、右左の区別をはっきりさせず、争いを避けることが第一になります。
争いの避け方として、出来る限り自分の主張を抑え、相手の気持ちを察し、相手を尊重して調和を図るために、日本では謙遜することが美徳になります。
決して、優柔不断であったり、決断力が無いのではありません。円を手本にする日本人は、右、左の極端を嫌い、調和を重んじる国民性なのです。
第五章 日本の不思議な教え
「武士道」
それでは、武士道とは何か?円の哲学で解き明かしてみます。
円の哲学⑥
「円は三六〇度、東西南北、四方八方、点(中心)からの距離は変わりません。」どこにあっても、点と円の距離が変わらないということは、点と円が見えない糸でつながっているということです。
神様を中心点に描かれた円の世界では、私達一人一人が、神様と見えない糸でつながっていて、どんな時でも、どんなことがあろうとも、神様との距離は変わることがありません。
つまり、円の世界にあって人は、常に神様とつながり、神様と共にあるという絶対的な安心感の中に生かされています。そして、そこから沸き上がる感情、有り難いは、感謝の言葉になります。
そして、刀を持った武士は、この神様とのつながりを、母親と赤ちゃんがへその緒でつながっているのと同様に考え、自分が罰を受ける前に、神様とつながる腹を切って、親である神様に、罪汚れが及ばないようにしたのです。これが切腹の正体になります。
また、神様を中心点とする円の世界にあって、四方八方東西南北どこにいようとも、点からの距離が変わらないということは、どんな身分に生まれようと、肌の色が違おうとも、誰もが生まれながらにして平等なのです。
そして、神様を中心点に描かれた円の世界ですので、私達一人一人、誰の中にも神性が宿っています。
故に武士は、これから殺し合う相手でさえ尊重の念を失わず、戦い終わった後、手を合
わせて礼を尽くすのです。
円の哲学で謎解く武士道とは、常に天(点)とつながり、天と共にあるという絶対的安心感に満たされ、天に恥じることなく生きるということです。
そして、円の哲学で謎説く忠義とは、忠とは、文字通りに、中心であり、点(天)である神様に仕えるということです。つまり、忠義とは、自分の主に対して、天に仕えると同様に、仕えるということです。
第六章 日本の不思議な教え
「一月一日(お正月)は凧揚げをして独楽などで遊ぶ」
なぜ?お正月という一時期を指定した遊びがあるのでしょうか?
それは、円の哲学を持っている日本人にとって、一月一日は特別な日だからです。
一月一日は、年の一番初めです。日本人は、毎年この一月一日を新たな一年であり、新たな世界の始まりの日と考え、円の描き始めである始点として、元日、正月と呼んで大切にしてきました。そのため、一月一日を迎えると、誕生日には関係なく、一つ年をとる、数え年、という年の数え方があります。
円の哲学⑦
「円を描く時、唯一線にならず、ただ一つの点として、目に見える姿で現すことが出来るのは、始点だけです。」それ故日本人は、始点は、見えない点(中心点)が、見えるようになった姿だと考えました。始点が中心点、つまり、この世界に姿を現した神様になります。
それ故一月一日は、始点であり、神様の姿を見る事の出来る唯一の日と考えられ、前日
の十二月三十一日の夜は、どんなに小さな子供でも夜更かしを許されてきました。現在では、一月一日に初日の出を見るという習慣になって残っています。若い人達の間では、初日の出を見ると言いますが、昔は、初日の出を拝むと言っていました。これは、円の哲学に基づき、初日の出を、年に一度しか姿を現さない神様として考えてきたからです。
この様に、日本人にとって、特別な一月一日は、円の哲学を子孫に伝える絶好の機会でもありました。丸いダイダイ、丸く形を整えられたお餅の形から、円の哲学を教え、丸い独楽で遊ぶことによって、軸を中心に丸い独楽が回る様子から、この世界が、神様を中心点として描かれた、円の世界であることを教えました。
そして、糸でつながるけん玉や凧で遊ぶことで、円と中心の点のつながりを教え、羽子板で羽根を突き、相手と羽根を落とさない様に続ける遊びを通して、途切れることなく続く、永遠の円を教えました。
更に、正月の遊び、かるたでは、かるたをとる側には、読み札は見えませんが、とる側の見ることが出来る絵札には、読み札の頭文字が、ひらがなで目立つように書かれ、始点が見えるようになった中心点であることを教えています。ですから、お正月はしり取りでなくカルタなのです。
また、この世界は円ですから、始点に始まり、始点を目指して、ぐるっとまわって元に戻ってきて終わります。完成とは、文字通り元に成ることです。そのため、始点である元旦にお金を使うと、お金を使い続け、お金を使って終わる年になってしまうので、元旦にはお金を使わないと教えることになります。
そして、お正月に食べる鮭も、生まれた川に必ず戻ってきますので、お正月の料理になります。
私達が幼い頃からお正月にやってきた日本の習慣の中に、円の哲学がちりばめられています。
現在では、意味も分からず、形式だけが受け継がれてきた日本文化ですが、実は子孫のために、円の哲学を教え、導いてくれていたのです。
日本の文化を和の文化と総称されることがありますが、和とは輪、つまり、円の事だっ
たのです。そして、円の哲学とは、長い間日本人が求めて止まなかった大和魂であり、大和の心だったのです。
日本では、古来から現在に至るまで、子供は正月を迎え、大和の心を学び、大人は正月の度に、大和の心を取り戻しているのです。